「みんな平等、みんな同じ」の履き違え
とある小学校の通常級で発達凸凹支援員をやってます。
日々の支援の中で感じたこと、考えたことや伝えたいことをつれづれに綴っています。
今日は息子の小学校最後の運動会でした。
運動嫌いな息子は、ずいぶん前から嫌がっていたのですが、今朝よくよく話を聞いて見ると、驚くことが判りました。
徒競走はくじ引きで、なんと学年イチ速い子と一緒に走ることになったというのです😫
私は正直怒り💢心頭でした。
そもそも運動会が徒競走とダンスだけというのもどうかと思うし、その徒競走の走るグループをまさかのクジで決めるなんて。
運動が得意な子はいいかもしれません。
でもうちの息子のように足の遅い子にとっては、余計に晒し者になる地獄。
運動ができないことで普段から傷ついているのに、さらにそこに塩を塗るような行為です。
うちの息子は通常級ですが、支援クラスの子たちも、速い子たちとは半周遅れくらいの差がついて、悪目立ちしてしまっていました。
これ、はたして平等でしょうか。
「差別しないためにくじ引きで」というのは聞こえがいいかもしれませんが、
晒し者になった本人やその家族がどれだけ傷つくか、その後どれだけトラウマになるか、運動嫌いになるかを学校は考えたことがあるのでしょうか。
さらにダンスはもっと酷いものでした。
6年生だというのに低学年以下レベルの簡単な動きの繰り返し。
しかもみんなが同じ動きなのです。
これも「平等」でしょうか。
コンビネーションとか見せ場とか、
みんな自分らしく動く所があってもいいのに。
なぜにみんな「同じ」でないといけないのでしょう。
勤務する学校でも、各学年が旗を使ったり鳴子を使ったり、ダンスをしたりとみんな揃った動きを繰り返し練習していました。
私の支援している子どもたちも、すべからく団体行動が苦手な特徴があります。
だから、動きが遅れたり、ズレたり、ボーッとしたりして、いつも目立ちやすくて怒られる対象になりがち。
揃わないと何度も練習させられるから、周りの子達もその子のせいで練習が終わらないと、責めるようになります。
いわゆる集中砲火を浴びる状態になってしまうのです。
当然その子たちは、大抵がわざとサボっているわけではないので、責められると、怒り出す子もいるし、自分はなんてダメなんだろうと落ち込む子も多いです。
何故どこもかしこも子供たちに同じ動きを強制するの?
私自身は外国の軍隊が一糸乱れぬ行進をしているのを見ると身の毛がよだちます。
壮大で勇壮な動きと感じる人が多くて魅了されるからでしょうか。
息子の小学校最後の運動会は、
厳しい言葉で言えば、なんの感動もない、ただ「やりました」という実績を作るだけのおざなりの運動会でした。
コロナ禍で学年割の短い実施時間になっから?
先生たちが忙しいから?
修学旅行の時期と重なって練習時間が少なかったから?
言い訳はいくらでもあるでしょう。
親が知らない色んな事情もあるかもしれません。
でも、これだけ社会や世界は、多様性を叫び始めているのです。
もう「みんな揃って」はやめにしませんか。
今、息子はすべてが終わって清々した顔をしていますが😅
学校任せじゃなく、親や社会も、学校の在り方や教育をちゃんと考えなきゃ、とひしひしと感じた1日でありました。
明日も支援は続く…
チャンスも支援も神様は前髪だけ。
とある小学校の通常級で発達凸凹支援員をやってます。
日々の支援の中で感じたこと、考えたことや伝えたいことをつれづれに綴っています。
ここのところ、小6の次男の登校しぶりが続いていました。
日頃からポツポツと話す言葉を拾っていると、具体的に嫌な相手がいるとかではなく、クラスでぼっちになっていることや、ざわつきのある空気が過敏な息子には息苦しいのだと思っていました。
空気なのだから誰も責められないし、先生に訴えてもどうしようもないと半ば諦めていたように思います。
ある日、学校から帰ってすぐにゴロゴロしながら「学校が嫌だ、もう行きたくないな」と呟いていた息子に、私も自分の用事を止めて横に座りました。
ネガティブなことを言っているけど、息子の表情は比較的穏やかでした。
「そっか、行きたくないか」とだけ言ってあとは少し黙っていました。
何か考えていたので「教室が嫌なの?」と聞くと、「一日中縛り付けられているのが嫌だ」と言いました。
それは以前も言っていたので、息子にとってはやっぱり心地よくない空間なんだなと改めて思いましたが、その時は何となくもっと突っ込んで聞いてみたくなりました。
雰囲気を作っているのはそこにいる「人」です。
私は息子のクラスの名簿を見ながら、今の席の周りに誰がいるのかを確認していきました。
すると意外なことに、これまで一切言わなかった女子たちの話が出てきたのです。
私が「この子は?」と順に聞いていくと、
「この子はしっかり者でみんなのお世話しているよ」とか
「この子はアネゴって言われて他のクラスからも友達が来る」とか
驚くほどにそれぞれの子の特徴を話しだしたのです。
今の席では、元気な女子たちがすぐ後ろにいて、いつも盛り上がっている。
そして何人かの男子もそれに引き込まれて楽しそうにしている、と話しはじめました。
「その時どう思った?」と聞くと、実はそこに入りたかったけど、突然入って場がシラけるのが怖かったと言いました。
これまで息子は人と関わりたくないんだと思い込んでいた私は、とてもびっくりしました。
まさか入りたいと思っていたなんて。
よくよく話を聞いてみると、小さい頃友達から無視された経験があって、人から嫌われるのが怖い、好かれたいわけじゃないけど、シーソーみたいにバランスがとれた関係を持ちたいということを話してくれました。
あぁ、私は今まで息子の気持ちが聴けていなかったなぁと初めて気付きました。
恐らくこれもほんの一面でしかなかったかもしれませんが、少なくとも少し深い所に触れた感覚がしました。
おそらくこのタイミングを逃したら、息子の気持ちは聴けずじまいだったかもしれません。
今回は息子が出していたサインを感じ取り、受け取る体勢が私にあったからこそ、息子も落ち着いて本音をこぼしてくれたのかなと思います。
支援の中でも、自分が時間を気にしたり、周りを気にしたりする状況では、子供は敏感にそれを察知して、本音を覆い隠す言葉しか語ってくれないんだと思い知らされました。
チャンスの神様のみならず、支援の神様も前髪しか生えていないのです。
前髪を逃せば、けっして捕まえられない。
誤って表面的な言葉、つまりカツラを掴んでも、スルリと逃げられてしまいます。笑。
翌日から息子は少しスッキリしたのか、何事もなく学校へ行きました😊
自分にも当てはまりますが、言葉を溜めすぎてはいけない、言葉を飲み込むクセをつけてはいけないなとつくづく思います。
不安や恐怖、怯え、攻撃などのネガティブな気持ちも適切な言葉を選んで外に解放していくこと、人に受け取ってもらうことが何より大切だと思います。
それを徐々に学んでいくのが家庭であり、学校。
それを教えるのが親であり、先生や周りの大人です。
そして同時に大切なのが、言葉を出す勇気を察知して、受け取る側のタイミング、環境、体勢。
すべてがマッチしてこそ、深いところでの気持ちの交換ができる関係性になれるのだと。
日々忙しさに追い立てられている自分も含めた大人たちへ。
子供の対応に困っているとしたら、それは自分のスピードが子供と合っていないかもしれません。
スピードを少し緩めて、子供の歩幅に合わせて歩いてあげると、子供たちの心がパカっと開くかもしれません。
大人が思っているよりもはるかに、たくさん感じたり考えたりしていることがわかるはずです。
明日も支援はつづく…
先生、聞いて聞いて!
とある小学校の通常級で発達凸凹支援員をやってます。
日々の支援の中で感じたこと、考えたことや伝えたいことをつれづれに綴っています。
今支援に入っている2年生の子供たちは、
1日何十回も先生に何かを言いに行きます。
「これってどうすればいいの?」
「〇〇ちゃんが、△△してきたー」
「先生、トイレー」
まるでシャワーのように先生は子供たちの声を浴びています。
忙しい先生たちは「それくらい自分で考えたり、友達に聞いたりして解決してほしい」と言いながらも、その対応に時間が埋め尽くされているようです。
でもよーく見ていると、言いに行っている子は割と一部。
分からないと反射的に先生のところに走っていける子は、恐らく育った環境で抑圧が少なく、大人に助けてもらう経験をたくさん学んで来たのだと思います。
そういう子に埋もれて、聞きに行けない(行かない)子達も一定数います。
「先生に聞いてみてごらん」と伝えても、躊躇して行けない。
我慢する。
なかったことにする。
私もかつては息子たちに、自分の頭で考えなさいと言い続けていました。
子育ての後悔の一つです。
しかし、分からないことや自分に無理そうなことは気兼ねしないで人に頼る、聞くということは大人になっても大事なスキルです。
少なくとも中学年くらいまでは、
大人がちゃんと話を聞いてあげる心と時間の余裕を持ちたいものです。
そうしないと、大事な時に何もしゃべってくれなくなるのです。
ようやく一クラス35人学級になりましたが、正直20人でも1人の先生が子供たちの話を全部聞くには難しいように思います。
昔のように兄弟も多く、近所のおじさんやおばさんが話しかけてくれるような社会ではなくなった今、親まで共働きで忙しくなって、一体誰が子供たちの「ねえねえ」を聞いてくれるのでしょう。
それを一手に引き受けているのが学校だとすれば、もっともっと大人が介入する学校になっていいのではないかと思います。
今日も支援は続く…
コロナ不安で学校に行けない子供たち。
とある小学校の通常級で発達凸凹支援員をやってます。
日々の支援の中で感じたこと、考えたことや伝えたいことをつれづれに綴っています。
昨日勤務の小学校で、高学年のクラスが8人休んでいるという話を聞きました。
理由はみんな「コロナ不安」。
何を隠そううちの息子たちも、夏休みが明けて登校しぶりがあり、隙あらば休んでやるぞオーラが半端ない😞
イヤイヤ学校に行ってる子も含めると、ものすごい数の子供たちの心に、この窮屈で閉塞感のある社会状況が影響しているんじゃないかと思います。
そもそもどうしてそんなに学校が嫌なのか。
それはいろんな理由があると思いますが、学校で支援をしていて気づいたことがあります。
担任の先生によってクラスの雰囲気が大きく異なり、子供たちの表情もまったく違うことです。
①全体的にゆるい雰囲気で、いつも騒がしい。みんな先生にどんどん言いたいことを言いに行くし、喜怒哀楽も多いクラス。
②なんだかピリついていて、放課も静か。先生や周りの顔色を伺いながら不安げな子や他人を注意したり、責める子が多いクラス。
学校では①の方がケンカなどの騒ぎが起きやすく、先生に怒られる回数が圧倒的に多いように思います。
学校の担任の先生に対する評価としても、①は「コントロールできていない=支援が必要」とされているようです。
でも実は、②のクラスの方が休む子が多く、こういうクラスこそ支援が必要なのになぁ…と私は思っています。
しかしこういうクラスに限って、担任の先生が支援員を必要とされないことが多いのです。
一見静かで落ち着いたクラスなので、管理職の先生が介入することも少なく、大量に子供が休んだとしても、クラス自体に問題があるとはあまり考えられないように感じます。
職員室で話を聞いていると、
「あの子は家庭がああだから」
「ちゃんと面倒見てもらえてないから」
「甘やかしすぎなんだよね」
家庭に原因があるから学校に適応できないんだという声をよく耳にします。
もちろんそういう家庭もないとは言えません。
でも子供は、家庭が嫌で問題があるならむしろ学校に来たがるのでは?
そして、帰りたがらないのではないでしょうか。
うちの次男も以前学校に行けない時に、「人が怖い」と泣いたことがありました。
そのクラス独特のいたたまれない「空気」「ピリついた雰囲気」こそが、不登校や登校しぶりを生んでいるケースもあるんじゃないかなぁと感じています。
こういうクラスの子達には、直接支援には行けなくとも、なるべく声をかけたり、笑顔を向けることで、何か少しでも役に立てたらと思っています。
明日も支援は続く…
子供にイライラするのは…
とある小学校の通常級で発達凸凹支援員をやってます。
日々の支援の中で感じたこと、考えたことや伝えたいことをつれづれに綴っています。
今日は休日で、次男を習字に送迎。
帰り道に次男、
「ジンジャーエールが飲んでみたいんだよね」。
どこにも出かけられない休日に退屈していた私はこれ幸いと、
大好きな喫茶店に行こうと決めました。
休日は遠出してでも素敵なカフェを巡りたい私。
でも家族がいると、あっという間に昼ごはんになるし、洗濯物取り込まないといけないし、夕ごはんの準備の時間になるし、そんなゆっくりする時間あるか??
それより一人でふらっと出かけるのもちょっと気が引けたりするもの。
だから息子の一言は、渡に船だったわけです😆
しばらく車を走らせていると、次男が不機嫌になり出しました。
「コンビニで買えるのに」
しかし走り出したら止まらない私は、「大丈夫、大丈夫」と目的の喫茶店へ車を走らせました。
着く頃には次男はすっかりご機嫌ナナメ😅
しかも、なんとその喫茶店にはジンジャーエールがなかったのです😭
すっかりヘソを曲げた次男は、「もう、僕は何も頼まない。母さんだけ頼めば」
感情を爆発させる次男に今度は私が怒りマックス‼️
意見も聞かず無理矢理、クリームソーダとミックスジュースを頼みました。
次男は図らずも来てしまったクリームソーダを前にため息をつき、観念した様子で飲み干しました。
私もすっかり機嫌を損ね、無言でジュースを飲み干します。
険悪な時間、5分。
久しぶりの喫茶店、ゆっくりしたかったのに🥲
店を出る時次男「もう二度と喫茶店は来ない❗️」と吐き捨てたので、
私も「私ももう連れてきません‼️」と売り言葉に買い言葉です。
まったく困った親子だなと思われることでしょう🤣
しかし、帰って落ち着いて振り返ってみると、「あぁ、またやってしまったー」と後悔がたくさん湧いてきました。
息子はジンジャーエールが飲みたかっただけなのです。
それにかこつけて自分の欲求を被せてしまい、結局息子の欲求を無下にした。
それでも息子は、我慢して飲みたくもないクリームソーダを黙って飲んで、お店には迷惑をかけないよう振る舞っていました。
自分の思い通りにしようとしたのは、他でもないすべて私なのでした。
子育てというと、責任感からなのかついつい自分が上に立ちがちになります。
「親のいうことを聞いておけば大丈夫」
「子供は口答えするんじゃない」
「子供のくせに生意気だ!」
子供の時、自分が言われていつもムカついていたくせに、親になったら忘れてしまうんだね。
それと、今日は月経の周期でただでさえイライラしていたということも、後になって気付きました。
体の不調は心の不調。
そんなものをぶつけられてしまった次男はたまったものではありません。
ごめんね、次男。
あとでちゃんと謝ろう。
そして、次イライラした時には、ちゃんと体の不調がないか自分を振り返れますように。
子育てはホント、親育てですね。
反省を目標に変えるぞー✊
明日からも支援はつづく…
勉強ができるより大事なこと。
とある小学校の通常級で発達凸凹支援員をやってます。
日々の支援の中で感じたこと、考えたことや伝えたいことをつれづれに綴っています。
さて、私も先日ワクチンの2回接種が終わりました。
特に2回目は副反応出るという周りの感想が多かったので戦々恐々でした😅
接種翌日は普通に仕事を入れてしまっていたのですが、夕方になるにつれ、体が熱く重くなっていきました。
熱を測ると、38.3°C。
やはり来たかーと思い、息子2人に寝室に入ることを告げ、早々に横になりました。
しばらくすると、階下から息子たちの話し声が。
長男「母さん、何か食べた方がいいよね。うどんでいいかな。」
次男「そだね、白だし使うと美味いよ」
中3と小6の男2人で、やいやい相談しながら楽しそうに料理をしています。
熱にうなされながら、ボーッとそれを聞いていましたが、思わず涙が溢れました。
勉強嫌いでも、
宿題できなくても、
学校行きたくなくても、
友達いなくても、
発達障害であっても。
困っている人を助けるために料理ができるってすごいじゃないか、我が息子たちよ‼️
学力が高いことはもちろん素晴らしいことですが、大人になって、
自分で食べること、
分からなかったら人に聞くこと、
困った人がいたら助けてあげること、
これらができるって本当に大切なことだなと思います。
だって生きていくって生活スキルと自律スキルが必要だから。
これこそ、学校で学ばなきゃいけないんじゃないかと。
日々支援で子供たちと関わる中で、できないことがたくさんあって先生に叱られ、自分はダメだと思ってしまう子たちがたくさんいます。
でもそういう子も、ふとした優しさや心遣いを見せることがあります。
叱り続けている先生は、良い所があっても切り替えてその部分は褒めるということがしづらくなっているように感じます。
だから私の立場では、ちゃんと言語化して褒めたい。
君にはこんな素晴らしいところがあるんだよ、と。
そんな時本人はたいてい無意識なので、意識して、自分にも褒められるとこあるじゃんって思ってもらえたらいいなって思います。
息子たちのうどん、最高だったなぁ☺️
たまには倒れるのもいいかも。笑。
今日も支援は続く…
素晴らしい本との出逢い。
とある小学校の通常級で発達凸凹支援員をやってます。
日々の支援の中で感じたこと、考えたことや伝えたいことをつれづれに綴っています。
先日テレビで見かけて、早速図書館で借りた本。
「マイノリティデザイン」澤田智洋
この本には、今まで言い表せなかった自分の気持ちが、的確かつ洗練された言葉で綴られていて本当に感動しました🥺
この本を読んで私が思ったこと。
「障害」を名付けて、重く、暗く、固く捉えるのではなく、「弱さ、苦手」とゆるく軽やかに捉えることが、社会の段差や軋轢を消すことに繋がること。
澤田さんの「ユーモラス✖️チャーミング」という"トンマナ"に激しく共感。
ついつい真面目さが際立ってしまう(自分で言うな)私にとっては、永遠の目標です。
そしてゆるスポーツは、小学校でもぜひ体育に取り入れてほしい!!
スポーツ嫌いになるのは、おそらく9割がた体育なんです。澤田さんがそうだったように。
もちろん勉強が苦手な子で、体育で活躍できる子がいるのも事実です。
でも、勉強も特別できず、体育でも活躍できない子ほど、いじめやからかいの対象になりがち。
スクールカーストである少数派メンバーの固定化を打破するために、このゆるスポーツがぜひ教育現場の救世主になることを望みます。
私は、人間には凸凹があるから、補い合って生きて来たから、ここまで進化できたんだと思っています。
凹の部分を殊更に責め立てて、差別して卑下して迫害することに何の意味があるのか、これが私の怒りの核心だと知りました。
それは、私にも発達障害の診断を受けた息子たちがいるから。
振り返れば、これまで私も自分の弱さを必死に隠して目立たないように生きて来ました。
たとえ得意なことがあっても、注目されると凹な部分が目立つから、長所を伸ばすこともなく、無難にひっそり過ごして来たように思います。
知らず知らずのうちに平均を求める私のような人間こそが、差別やいじめを生み、たくさん人を傷つけて来たのかもしれません。
澤田さんのように、みんなが自分の弱さを軽やかに曝け出せて、それを応援できる人が自然と集まってくる世の中になったら、きっと「障害」なんて言葉も、パラリンピックの概念も無くなるんじゃないかと思いました。
ここからの人生は、困っている人に手を貸すことよりも、困ってしまう状況をなくしたい、困らせる社会を何とか変えたいということに気付きました。
今は、困っている人のいる状況の現場視察をしている段階なので、この身をもって体験したことから、いつか障害という言葉をなくすコトをクリエイトしたいと願っています。
この本を書いて下さった澤田さんに感謝とリスペクトを捧げます。
そして、この本をちゃんと買います。笑。
明日からも支援は続く…