小学校支援員ねずママ子ども成長応援日記♪

現役特別教育支援員の小学校通常級での支援記録です。

子供には安全な自由、たくさんの選択肢を。

とある公立小学校の通常級で学校支援員をやってます。

日々の支援の中で感じたこと、考えたことをつれづれに綴っています。

 

とうとう3年間の支援員生活も終わりました。

子供たちの学校生活を肌で感じて、あぁ、学校ってこんな所だったんだなとたくさんの気づきがありました。

 

そもそも支援員をやってみようと思ったのは、自分の子供たちの特性によって度々トラブルがあり、登校を渋るようになったことがきっかけでした。

自分が学校に通っていたのは30年以上も前です。今一体どうなっているんだろう?何が息子を苦しめているのか?という疑問から、とにかく中が見たかったのです。

 

たった3年かもしれませんが、実際の学校現場に入って、息子たちがいかに不安だったか、困っていたかが身に染みて判りました。これは学校行きたくなくなるな、と思いました。

 

今の公立学校は、当たり前ですが40人近くを1名の先生が見るわけですから、集団行動が鉄則です。

40名のうち7-8割の子ができればOKなカリキュラムになっていて、出来過ぎる子やついてこられない子はそのままスルーされるケースが多々ありました。

スルーされるのはまだいい方で、叱責を繰り返される子もたくさん見てきました。

おそらく我が子も入学した頃からそうだったろうと容易に想像ができました。

 

どれだけ個別配慮されるかは、先生の力量や、学校側の副担任や支援員などの配置判断によります。

ただし、どんなに人数がいても発達障害への真の理解がなければ、子供は余計に追い立てられ苦しみます。

 

正直私は長男の小学3年生頃まで本当の意味で発達障害を理解できていませんでした。

どこかで「当たり前のことがなぜできないんだろう」といつも悩んでいました。

しかし、そもそも「当たり前」とか「普通」という考えこそ、学校的価値観に毒された多数派の考え方だったのです。

思えば自分自身が多数派に紛れるように必死になってきた人生だったことも理解を阻ました。

ようやく自分が理解できた後も、三つ子の魂百までというように、いまだに息子たちにはトラウマのように影響は残り続けています。

息子たちは、学校で集団に入れない、多数派として行動できないことで、長い間いかに苦しんで来たかが今回現場に入ってよくわかりました。

必死に子育てをしてきたつもりでしたが、当時は先生と一緒になって追い詰めてしまい、息子たちには申し訳ないことをしたと今でも悔いが残っています。

 

私が尊敬する本田秀夫先生も繰り返し述べられていることで、とても合点がいった言葉があります。

「早期にブレーキをかけてギアチェンジすること」

です。

 

発達特性によって集団に馴染めないと、親や先生は必死になって周りに追いつけるようにガソリンを入れまくります。

大人が気づかないうちに虐待行為に発展することもあります。

そしてそれができないとわかると、成長を諦めたり、放置や育児放棄をしてしまうことになりかねません。

ガソリンを入れて早く走らせるのでも、ブレーキをかけてエンジンを停めてしまうのでもなく、シフトを変えてギアチェンジし、その子が最適な速度で走れるようにメンテナンスを手伝うことが大人の役割なのだということがようやくわかりました。

 

今の学年割のカリキュラムでは、個々の子に最適な速度にギアチェンジするのは極めて難しいと思います。

少しずつ公立の学校も変わり始めているとは耳にしますが、コロナ禍で社会や大人が分断を強いられ、大きく変化が起こった今、子供たちは大正や昭和のカリキュラムのまま置き去りになってしまうのでしょうか。

 

子供たちには、より安全で安心な子供の世界の中で、もっと異年齢や異人種との交流やさまざまな学びが自由に選び取れる権利、みんなが自分に合った速度で学べる権利を与えてあげるべきなのではないかと、これまでの支援員経験の中で強く感じました。

 

これからは保育士として保育園で働きます。

まずは現場を観察することが楽しみでなりません。

小学校での支援経験を活かして、保育園で何ができるかをゆっくり吟味していこうと思っています。

 

ここまでで、私の支援員の人生に一旦区切りをつけます。

拙い文章を読んでいただいた皆様には心よりお礼申し上げます。

 

このあとは、「50歳で保育士に転職‼️ねずママのゆるゆるキャリアチェンジ挑戦記」に続きます!

学校での「出来ない子」とは。

とある公立小学校の通常級で学校支援員をやってます。

日々の支援の中で感じたこと、考えたことをつれづれに綴っています。

 

いよいよ3月。支援員としての生活もあと1週間で終わろうとしています。

この3年間を振り返ってたくさんのことを学びました。

自分の経験不足も痛感しました。

新しい気づきも満載でした。

一番大きかったのは、自分がこれまでいかに学校的価値観に縛られていたか、そして学校の成績で測られる物差しがいかに偏っているかということ。

「出来ない子」認定されるのは、まずはテストの点が悪い子。

そして集団行動について来られない子。

先生の指示に従えない子。などなどあります。

 

しかし、たとえ上記の「出来ない子」認定されてしまった子であっても、

困っている人にさっと手を差し伸べる、温かい言葉をかける、脱いだ服を丁寧にたたむ、予測して行動ができるなど、素晴らしい所が随所見られることがありました。

逆に成績が良かったり、先生の指示をちゃんと聞いて動く子でも、人を馬鹿にする、傷つける、嘘をつく、時間が守れない、整理整頓ができないなどたくさんいました。

知能や学力の高さが、生活スキルの低さや人間性の問題を覆い隠してしまうのです。

そして見過ごされたり、様子見されているうちに思春期を迎えて、本人が思い悩み、いずれ取り返しのつかない問題に発展する場合があるように思います。

昨今の少年少女の事件や自殺、不登校の多さはこういうことも関係しているのではないかなぁと思えてなりません。

 

学校の中で浸透する偏った価値観は、社会で通用しないことが多々あると私は思います。

 

そこのギャップが何とかならないものだろうかと、この3年間を通して歯痒く思うようになりました。

 

子供を変えるのではなく、大人が、社会が変わらなくてはいけないのではないか。そう思います。

 

自分に何ができるか、これからもしっかり考えながら次のステージへ進みたいと思っています。

 

今日も支援はつづく。

 

 

 

トイレを我慢し続けるKちゃん。

とある公立小学校の通常級で学校支援員をやってます。

日々の支援の中で感じたこと、考えたことをつれづれに綴っています。

 

以前にも書いたのですが、支援しているクラスには、股間を押さえながらトイレを我慢し続けるKちゃん(女の子)がいます。

 

一日中自分の机でも、物を取りに行った先の床の上でもモジモジしていて、以前からずっと声をかけているのですが一向にトイレに行こうとしないのです。

 

不思議なのは、限界が来てトイレに行った後もモジモジが止まらないこと。

 

ある日、あまりにも不自然な体勢で床でモジモジしているので、真面目な顔で話しました。

「先生のお友達でトイレを我慢しすぎてお腹が痛くなって病気になってしまった子がいるの。だからとっても心配なんだよ」と伝えました。

 

すると隣に座っていた子が言いました。

「これ、保育園の時からの癖だから言っても治らないよ!」

 

それを聞いたKちゃんは俯いて涙ぐみながら言いました。

「そうだよ、癖だから治らないもん。前に病気にもなった。」

 

私はまさか自覚していたとは思いもよりませんでした。

「そっか、Kちゃんは分かってたけど治せなくて困ってたんだね。」

 

ここは一歩前進!と思いながら、Kちゃんに聞きました。

「トイレに行くと嫌なことがあるの?」

 

するとKちゃんは話し出しました。

「ちっちゃい頃に家で弟に大事なおもちゃを取られたくなくて、トイレに持っていったの。そしたら落としちゃった。」

とても悲しそうでした。

 

「じゃあ大事な物を落としちゃうかもしれないからトイレが嫌なの?」と聞くと、

「学校では大事な物をトイレに持っていっちゃいけないでしょ。秘密のファイルがあるから、誰かに見られちゃうと困るから。」とKちゃんは小さな声で言いました。

 

私はこっそり打ち明けてくれたKちゃんにお礼を言って、

「じゃあ先生が誰も触らないように見ててあげるから行っておいで」と言うと、パッと笑顔になって「うん!」とトイレに走って行きました。

 

彼女を見ていると行動の切り替えが悪かったり、こだわりが強かったり、特性が色濃く出ているので、彼女の言ったことが全ての原因ではないかもしれませんが、彼女がそう自覚している以上それが真実なのだと思うことにしました。

ちゃんと言葉で伝えられたKちゃんはすごいと思います。

 

さてどうするか。

私が都度声掛けしていては、私がいなくなったら元の木阿弥。

 

そもそもなぜ人に秘密を見られると疑うのか。

具体的に誰かを疑っている?

 

それはトイレに行く時だけなのか?

 

恐らく彼女の中にはもっともっと何かがあると思うのです。

時間をかけて丁寧に話を聴いていく必要があると思うので、まずは担任の先生にもこの話を共有しました。

 

支援員としての勤務があと残り数週間となってしまったので、養護教諭の先生にも共有しようと思っています。

 

Kちゃんが、困り感のない楽しい学校生活にできるように強く願っています。

 

今日も支援は続く!

奪われるひとにならないように。

とある公立小学校の通常級で学校支援員をやってます。

日々の支援の中で感じたこと、考えたことをつれづれに綴っています。

 

空気が読めない、融通が効かない、切り替えが苦手、空想にふけりがち、などの自閉スペクトラムの息子を育てていても思うのですが、発達に課題があると言われる子たちは、悪意ある略奪者のターゲットにされやすいように思います。

 

真面目で人の言葉の裏を読み取ることが苦手な子が多いので、一度信じてしまった人に簡単に騙されたり、奪われたり、利用されたりする危険があります。

例えばゲーム課金、詐欺、ぼったくり被害など、心配ごとにはキリがありません。

 

知能の境界域にいる子たちも同じ。

思考力や判断力が弱いために、大人になって搾取されたり、事件を起こしてしまったり、巻き込まれたりすることが、昨今の報道や書籍などでも取り上げられることが増えました。

もちろん一概には言えませんが。

 

ただ、どうしたら善良な子が獲物にならないよう、悪者を見分けられるよう教えられるのかをいつも考えています。

一番いいのは、Eテレあたりでドラマ仕立ての番組をたくさん作ってくれないかなぁなんて思ったりしています。

 

残念ながら子供の頃から自分を守るために嘘をついたり、他人を貶めたり、得をしようとする子がいるのも事実です。

 

そういう子はよほど痛い目に遭わない限り、恐らく大人になってもその性格は変わらないでしょう。

 

本来そういう心に闇を抱えた子こそ支援の対象なのです。

発達や知能がどうという問題よりも、不適切な育ちをしてこざるを得なかった哀しい子たちが、罪悪感なく人を傷つける大人にならないように。

 

学校という社会で、先生とは違う角度で子供たちを見ている私たち支援員に出来ることはまだまだあります。

虐待問題やヤングケアラーの問題も、いち早く芽に気づくことができるでしょう。

 

私のいる自治体では学校に1人しか配置がない支援員。

各学年に1人ずついてもおかしくない現状をぜひ理解してもらいたい。強く願う今日このごろです。

 

本能のままに、あるがままに。

支援臭さに気をつけて。

とある小学校の通常級で学校支援員をやってます。

日々の支援の中で感じたこと、考えたことをつれづれに綴っています。

 

私が参加をさせていただいている勉強会で学んだことがあります。

 

それは「支援臭さを出さないこと」。

実を言えば、支援員という肩書きもあまり好きではないのです。

 

「あなたを助けてあげたい」「あなたの役に立ちたい」は、ともするとただの自己満足に陥る可能性を孕んでいるためです。

自分が相手の優位に立ち、自分の思い通りにコントロールをしてしまいかねないとも言えます。

 

私は自分を確立し、幸せを感じ、自分の人生を自分で決めて歩んでいる、その中で困っている子と共に立てるように心を寄せる、そんな仕事をしたい。

 

その子が自分の人生を幸せに歩めるように。

 

本能のままに、あるがままに。

学習指導要領について素人の私が考えたこと。

とある小学校の通常級で発達凸凹支援員をやってます。

日々の支援の中で感じたこと、考えたことをつれづれに綴っています。

 

支援員になって3年、この頃強く思うことがあります。

2年生でひらがなを書いたり読んだりすることがおぼつかない、計算も2桁の足し算で止まってしまい、九九も習得できていない男の子がいます。

しかし彼はとてもコミュニケーション能力が高く、兄弟がいじめられたことに腹を立てたり、私に「いつもべんきょうをおしえてくれてありがとう」と拙い字で手紙をこっそりくれたりします。

人のことをよく見ているし、先生の指示もちゃんと聞けます。

勉強への意欲もあります。

 

なのにカリキュラムはつまづいた彼を待ってはくれず、どんどん進みます。

分からなくても置いてきぼり、テストが出来なくてもそのまま終わっていきます。

その中で彼が学んでしまったのは「自分は勉強ができない」という劣等感と挫折でした。

 

先生に話すと「家庭でも遅れを補う気がないんですよ」と言われ、愕然としました。

 

もちろん学校に家庭教師的なことはできないにしろ、遅れは家庭で取り戻すのが本当の公教育なのだろうか、と正直思いました。

 

彼は2桁の足し算の筆算を楽しそうに解いているのです。

ならば、3桁4桁とやらせて自信をつけさせてもいいのではないか。

教科書に載っていないからですか?

 

色々と意見はあるでしょうが、計算や文字を書くのが苦手な子には、パソコンや電卓にさっさと任せればいい。

もっと興味のあることを楽しく学んでいけたら、彼が自信をなくすこともないんじゃないかと思えてなりません。

 

彼だけでなく、授業中につまづいている子は案外たくさんいます。

つまづいても、別の教え方や方法を教えずに、何度も練習させてやり直させていれば、嫌いになるのは明らかです。

しかも、先生ができるクラスメートに教えさせることもあり、余計に劣等感を植え付けるように思えてなりません。

 

私は教員免許を持っていないし、あくまで一般社会人としての目線なので、素人考えだと言われるかもしれません。

 

でも、例えば学年やクラスを跨いで希望するカリキュラムごとにグループで学ぶ時間割があったらどうでしょう。

算数の基礎を勉強するグループ、体育で跳び箱や縄跳びを練習するグループ、小学校の漢字を楽しく覚えるグループなど。

自分のやりたいこと、学びたいことをやれる時間を保証する。

なぜ、1年生にはこれ、2年生にはこれ、と覚えることが分かれるのでしょう。

難しいことが覚えられる子はどんどん進み、そうじゃない子はそこで止まったり戻ったりして理解できるまで色んなやり方を試す。

1年生でも6年生の漢字を覚えられたっていいじゃないですか。

6年生でも分数を納得行くまでやったっていいと思います。

不平等だからいけないのですか?

 

計算や書き取りが苦手な、いわゆる学習障害と言われるケースの子達は、眼鏡をかけるようにパソコンや電卓を自分で持ってこればいいんです。

大人の社会ではそれが当たり前なのですから。

 

正直言って、学活という授業で、多数決で鬼ごっこをするくらいなら、そういう時間を作ることは可能だと思います。

 

それともう一つ大事なこと。

先生たちも自分が得意で教えたい教科を教えられたら、きっと熱のこもる授業ができるのではと思います。

先生たちの疲弊を解消することこそ、子どもたちの教育の質を上げるための1番の近道なのではないかなぁと思います。

 

教育現場は、そこにいる大人も子供も楽しくて情熱的で居たくなる場所であってほしい、心からそう思います。

しがない支援員のつぶやきでした。

 

本能のままに、あるがままに。

東大事件について思うこと。

とある小学校の通常級で発達凸凹支援員をやってます。

日々の支援の中で感じたこと、考えたことをつれづれに綴っています。

 

先日、大学入試センター試験で痛ましい事件が起きました。

「人を巻き添えにするなんて、なんて自分勝手だ」

「許せない、少年だが厳しい刑罰を」など、加害少年が吊し上げになっている状況があちこちで見られます。

少なくとも関わり合いもない人が、加害者の誹謗中傷を発信するのはいかがなものかと思います。

とはいえどんな事情があったにせよ、無差別殺人を計画し、実行に移したわけですから到底許されるものではありません。

何の落ち度もない被害者の方の人生が狂わされることのないよう、

そして、この少年がきちんと自分の犯した罪と向き合い、被害者への償いを経て再び、本来の自分らしい人生が歩めることを願ってやみません。

 

私はあくまで支援員の目線で今回考えたことを書き記そうと思います。

 

記事によると、有名私立進学校から医師を目指していた少年。

恐らく幼い頃から知能も高く、恵まれた教育環境で育ってきたと予想されます。

まだまだ分からないことばかりですが、一部報道では「成績が落ちて自信を失った」と供述しているそうです。

もしもそれが本当ならば、成績だけが彼のアイデンティティを確立する唯一の価値だったのでしょう。

成績が落ちたことで彼は人生に絶望した。

ではなぜ、赤の他人へ刃を向けたのか。

 

子供支援をしている中で経験したことがあります。

怒りや絶望を自分に向け、自分を責めて大泣きしたり、自分の頭を何かにぶつけたりして自分を傷つけるタイプ。

その逆で、他人や物に向けて暴力や暴言を放つタイプ。

外に向くというのは、自分の弱さが受け止めきれない、自己理解が正しくできていない、他人に勝てる自信があるとも言えるのかもしれません。

 

ベクトルがどちらに向くかは、幼い頃からパターン的な行動が出ていることが多いように思います。

今回の加害者がどんな育ちをしてきたのか、自分の思い通りにならない時にどんな行動パターンだったのかなと思います。

 

自信をなくし孤独を深めてしまった彼に、誰かその気持ちを聴いて、手を差し伸べられなかったのか。

少し前に同級生を視察した中学3年の受験生の事件もありましたが、

日本社会は核家族化が進み、昔のように地域の大勢の大人や子供が育ち合う社会ではなくなり、社会性が乏しい子供たちが増えたにも関わらず、

未だに社会も学校も、昔ながらの階級意識、高学歴志向が抜けきらず、そこへ子供たちを追い立てているように思います。

特に学力の高い子は、人に優しく出来なかったり、片付けか出来なかったり生活スキルが多少足りなくても、大人が許してしまい、学ばないままに年齢が進んでしまうケースがあるのだそうです。

だから勉強の成績だけで価値を測ってしまうという極端な思考になってしまうのかもしれません。

 

今回の加害者も、幼い頃から自分や他人を大切に思う心の豊かさを学びそびれてしまった可能性もあるし、コロナ禍で対人コミュニケーションが寸断されて孤独を深めたのかもしれません。

私には本人ばかりに責任があるとは到底思えないのです。

 

どうか彼の周りの人々が、今回の事実から決して目を逸らさず、本気で彼と真正面から向き合って原因と更生、必要ならば療育を考えてもらえるよう願ってやみません。

 

最後に、今から受験を迎える子たちへ。

 

受験は人生のほんのわずかな一部です。

失敗したって、人生が終わる訳じゃない。不幸になる訳でもない。

 

自分次第で沢山の道が拓けています。

失敗をバネに巻き返している人も、世の中には山ほどいます。

一度深呼吸して、周りを見渡してみてください。

そして、話せる人を見つけて想いを打ち明けて見てください。助けを求めてください。

締め付けてくる人、束縛する人、嫌な人からは全力で逃げるんです。

 

思ってるより、世間はずっと自由で緩やかなはずですから。

 

本能のままに、あるがままに。